異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

初読の感想だけど。
根底に流れているテーマの一つは生と死だと思う。
物語もムルソーのママンの死で始まるし。
ママンの死、サラマノ老人の犬の死、アラビア人の死、そして「私」ムルソーの死。
生の象徴としてはマリイがいると思うけど、マリイは生というよりは自由の象徴のようにも思える。

最初私に女の話をしたのは彼だ。(中略)「けれど、あんたがたを牢屋へ投げ込むのは、これあるがためでさあ」−と彼が言った。−「どうして、これがためなのさ?」−「確かにそうでさあ、自由ってのは、すなわちこれですよ。あんたがたは自由を取り上げられるんでさあ」私はこんなことは考えたことがなかった。私は彼に同意を示して、「ほんとだな、そうでなかったら懲罰とは何だろう?」

生と死の二項対立みたいなものとどう関わるかは分からないけど、自由と懲罰っていうテーマも同時にあるんじゃないかな。仏文はさっぱり知らないけどどういう評価がされてきた作品なんだろう。
マリイは自由の象徴だとしても、「私」はマリイを求めるのではないし、さらに死刑を心待ちにしている。
死刑を目前にしてムルソーは死んだママンが語った父の話を思い出す。

父はある人殺しの死刑執行を見に行ったのだ。それをみにゆくと考えただけで、父は病気になった。それでも父は見にゆき、帰って来ると、朝のうちは吐きに吐いたのだ

その話を聞いた当時はそんな父親に嫌悪した「私」はこのあと次のように語る。

しかし、今となると、それがごく当たり前だということが、わかった。死刑執行より重大なものはない、ある意味では、それは人間にとって真に興味ある唯一のことなのだ


ギロチンの「機械」とか「メカニックなもの」とかの表現どっかで聞いたなぁ。どこだっけ。
当然最初に目がいくのは「私」と特異なあり方なんだけど、母親の葬式の時に無感動とか直後に海水浴に行くとか、女の子と喜劇の映画を見るとか。でもそれを冷静に批判する目も作品の中には表れていて、裁判では「私」がそれらの事を中心に追い詰められている。
「私」が特異なのか、時代が特異なのか、だとしたら批判する目は何の比喩なのか、不条理ってどこから何を見て言ったらいいのか、私自身が飲みこまれちゃったなぁという感じがした。
それに話は突然ぷつりと終わってるし。(新潮文庫版は後に解説があるからまだ本編が続くのかと思って読んでただけにそう感じた)置いてきぼりにされる気分。


寝かしといていつかまた読もう。